伏見の歴史 伏見の歴史

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伏見桃山時代とは

天下人の城、伏見城

 南は宇治川に臨み、西南に淀・山崎を眼下におさめ、京都の南の関門を占める伏見に、秀吉が築城工事をはじめたのは1592年(文禄元年)のこと。奈良の興福寺・塔頭多聞院に残されている日記には「伏見城は隠居城」と記されており、大坂城や聚楽第にくらべて私的な性格の強い控えの居城であったことがうかがえます。
 隠居城とはいえ、天下人である秀吉の居城。淀城の天守と矢倉を取り壊して移築し、各地より名石、古い昔の塔などを取り寄せ、茶会用の滝の座敷をつくらせるなど、奇をてらい贅をつくした建物がつくられ、わずか1年足らずで城郭はほぼ完成に至りました。築城工事には当時の土木と建築の技術の労力が駆使され、石垣造りでその名を知られた近江の穴太(あのお)衆の石工も参加しました。
 秀吉が最初に建てたこの隠居城の位置は南に宇治川が流れる指月の森、伏見山の西南の辺りに位置していました。また対岸の向島に出城を築き、橋をかけましたが、近江・美濃の各地から調達した桜の並木でつながっていたそうです。
 1594年(文禄3年8月)には秀吉の入城を見るまでとなり、順調に城郭の整備がすすめられていました。しかし、1596年(慶長元年7月)大地震が畿内を襲いました。これが世にいわれる慶長の大地震です。
 伏見城指月屋敷も向島の出城もこの大地震であえなく崩れ去り、当時の建築技術の粋をつくした壮麗な建築群も姿を消しました。この土地が城地に適さないと判断した秀吉は復旧に際して、指月の森の東、伏見木幡山を城地に定め、すぐさま築城に着手しました。

 昼夜を徹した築城工事がすすめられ、10月には本丸の普請が完成、翌2年正月には新たな普請もはじまり、5月には壮麗な再興された天守閣や殿舎も完成に近づき、秀吉、秀頼が城に移るまでに至りました。同年10月には舟入御殿、学問所、茶亭なども完成。しかし、翌3年、8月になっても城の普請が続いていましたが「つゆと おき つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」の辞世を残して、秀吉は城の完成を見ず、この世を去ったのでした。
 伏見城をはじめとする秀吉が築城した数々の城郭、それは戦国乱世に築かれた山城、戦闘本位の「城堅固な城」ではなく、平野に築かれた領国支配の拠点としての「国堅固の城」でした。城郭の領主の住居にして、政治を執り行う場所であり、その威容を誇ってそびえたち、城下町は政治・経済の中心として、情報と物資が集散する水陸交通の要衝に建設されたのでした。

洛中洛外図屏風・伏見城・豊臣秀吉

 昼夜を徹した築城工事がすすめられ、10月には本丸の普請が完成、翌2年正月には新たな普請もはじまり、5月には壮麗な再興された天守閣や殿舎も完成に近づき、秀吉、秀頼が城に移るまでに至りました。同年10月には舟入御殿、学問所、茶亭なども完成。しかし、翌3年、8月になっても城の普請が続いていましたが「つゆと おき つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」の辞世を残して、秀吉は城の完成を見ず、この世を去ったのでした。
 伏見城をはじめとする秀吉が築城した数々の城郭、それは戦国乱世に築かれた山城、戦闘本位の「城堅固な城」ではなく、平野に築かれた領国支配の拠点としての「国堅固の城」でした。城郭の領主の住居にして、政治を執り行う場所であり、その威容を誇ってそびえたち、城下町は政治・経済の中心として、情報と物資が集散する水陸交通の要衝に建設されたのでした。

城下町・港町の誕生

伏見城下町図・伏見城築城以前の巨椋池図

 秀吉の強大な権力と、莫大な財力を駆使した都市づくりによって、まちは“伏見九郷”と呼ばれた農村から、当代随一の近世都市へと生まれ変わりました。伏見は天下統一した豊臣政権の政治的必要から、全く人為的に建設された新しい都市であり、豊臣政権から、初期の徳川政権の時代において、全国統治のための最も重要な中央政治都市としての役割を担ったのでした。

伏見城下町図・伏見城築城以前の巨椋池図

秀吉は築城に際して、これまで広大な巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、新しく槇島堤を築くことによって、城下の南まで北上させました。そして、この伏見のまちに引き入れた宇治川を三栖から淀まで、さらに堤防を築いて淀川と結び、伏見と大坂の間に水運を開いたのでした。この淀川堤防が世に知られる“太閤堤”で、以後、伏見は内陸の河港として発展をしてゆくのです。
 また、秀吉は大規模な土木工事によって新しい街道も整備しました。伏見のまちから豊後橋を経て、巨椋池を南北に縦断し奈良へ至る新大和街道をはじめ、藤森から伏見稲荷大社・東福寺前を経て、京都五条に至る伏見街道、竹田を経て京都の油小路通と結ぶ竹田街道、京橋から淀堤を通って淀・大山崎を経て大坂に至る大坂街道、藤森から大亀谷、勧修寺を経て追分に出て、大津に至る大津街道、六地蔵から木幡を経て宇治に至る宇治街道などがつくられました。
 秀吉はまちの中にあった社寺を大亀谷付近に移転させたので、初期の都市づくりにおいて、町家や社寺が占める土地は極めてわずかでした。しかし、武家の住んだ屋敷は伏見山や外堀の内外に広がり、広大な規模を誇っていました。大名屋敷として徳川家康は別格扱いで、豊後橋を経た向島の地に城を構え下屋敷を与えられていました。

 1600年(慶長5年)秀吉没後の天下を争った関ヶ原の戦いでは、関ヶ原を主戦場とする大合戦とともに、日本最大の政治都市伏見をめぐる伏見城攻防戦があり、戦勝者徳川家康による伏見城下の西軍諸大名の屋敷焼き打ちがありました。
 伏見のまちは混乱しましたが、家康もまた、伏見を全国統治の重要な都市と認めて、まちの再建に取り組みました。慶長6年には大坂から大黒常是(だいこくじょうぜ)を呼び寄せ、慶長豆板銀・慶長丁銀の鋳造を行わせました。これが日本で最初につくられた銀座です。
 慶長18年には角倉了以(すみのくらりょうい)に京都二条から伏見までの高瀬川の開削を行わせ、伏見が京都の中心部につながると、伏見はますます繁栄を極め、三十石船をはじめとする大小の船が行き交う港町として賑わいを見せるようになったのです。

徳川家康
淀川両岸便覧「京橋」

桃山の由来と伏見城

 慶長豆板銀・慶長丁銀権力と富を誇って築かれ、桃山時代のあらゆる技術を結集し、意匠の粋を凝らして生み出された伏見城でした。しかし、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅亡、徳川家の天下が確定し、1619年(元和5年)に大坂城が修築されると伏見城は廃城となりました。
 1623年(元和9年)伏見城での3代将軍徳川家光の将軍宣下を最後に、華やかな歴史の舞台から消え去り、静かにその役目をおえたのです。
 「我衣に ふしみの桃の 雫せよ」 『野ざらし紀行』の旅に出た俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)は“桃山”の地を訪れてこの一句を詠んでいます。伏見城が廃城となり、跡形もなく取り壊されて跡地には桃の木が植えられ、桃の花見を楽しむ名所となったことから、この一帯が“桃山”と呼ばれるようになりました。
 数奇な運命をたどり、忽然と消えた伏見城。全国各地には伏見城から移築されたという遺構が数多く伝えられています。山陽新幹線の福山駅から間近に臨む福山城伏見櫓。昭和28年の解体修理の際、梁にかかれた墨書から伏見城の松ノ丸ノ東櫓であることが判明しました。この伏見櫓は天守を中心とした城郭の本丸西南の隅にあり、高さ五間の石垣の上に立つ三層三階の隅櫓で、まず、二層の上に大きい入母屋の屋根をかけ、その上に小さい第三層を乗せる構成は初期天守閣に見る望楼風の形式をよく伝えています。

 華麗をきわめた伏見城の千畳敷の書院、その威風を感じさせるのが京都の東本願寺書院。鴻(こう)の間と呼ばれる対面所を含むこの書院は豪壮華麗な意匠で知られ、桃山時代の様式を伝える最も代表的な住宅建築として知られていますが、伏見城の遺構であるという確証は得られていない。
 長浜の東本願寺別院、大通寺の広間は伏見城の遺構と伝えられています。伏見城には茶亭、学問所、舟入御殿など、さまざまな建物が並び立ち、それぞれに優雅と華麗を誇っていました。琵琶湖にあって、弁財天を本地仏としてまつる都久夫須麻(つくぶすま)神社の本殿も伏見城の遺構と伝えられています。
 秀吉の夫人北政所が亡き夫の冥福を祈って建てたという京都東山の高台寺には傘亭(からかさてい)と時雨亭(しぐれてい)と呼ぶ茶室があり、寺伝では伏見城の遺構といわれています。
 伏見のまちの産土神、御香宮の表門は伏見城の大手門の遺構と伝えられ、このほか、西本願寺の唐門、醍醐三宝院の唐門、豊国神社の唐門など伏見城の遺構と伝えられる建物は多い。伏見城の廃城により、伏見のまちは全国統治のための中央政治都市から、京都と大阪をつなぐ中継商業都市へと、都市機能を大きく変化させていきました。

御香宮表門・竹生島神社本殿・高台寺・芭蕉句碑

 華麗をきわめた伏見城の千畳敷の書院、その威風を感じさせるのが京都の東本願寺書院。鴻(こう)の間と呼ばれる対面所を含むこの書院は豪壮華麗な意匠で知られ、桃山時代の様式を伝える最も代表的な住宅建築として知られていますが、伏見城の遺構であるという確証は得られていない。
 長浜の東本願寺別院、大通寺の広間は伏見城の遺構と伝えられています。伏見城には茶亭、学問所、舟入御殿など、さまざまな建物が並び立ち、それぞれに優雅と華麗を誇っていました。琵琶湖にあって、弁財天を本地仏としてまつる都久夫須麻(つくぶすま)神社の本殿も伏見城の遺構と伝えられています。
 秀吉の夫人北政所が亡き夫の冥福を祈って建てたという京都東山の高台寺には傘亭(からかさてい)と時雨亭(しぐれてい)と呼ぶ茶室があり、寺伝では伏見城の遺構といわれています。
 伏見のまちの産土神、御香宮の表門は伏見城の大手門の遺構と伝えられ、このほか、西本願寺の唐門、醍醐三宝院の唐門、豊国神社の唐門など伏見城の遺構と伝えられる建物は多い。伏見城の廃城により、伏見のまちは全国統治のための中央政治都市から、京都と大阪をつなぐ中継商業都市へと、都市機能を大きく変化させていきました。

伏見城に花開く桃山文化

 秀吉が隠居城として築いた当初は華麗な紺碧障壁画で飾られるような内部ではなく、明国との講和の交渉がすすめられ、その講和のため、明の使節を引見する舞台として伏見城が予定されると、本格的な城郭への改造・増築がはじめられました。
 1594年(文禄3年)正月を期して着工された新しい城郭は当然、明の使節を引見するための大書院が含まれ、狩野派を中心とする画家に、その障壁画制作が命じられたと考えられます。
 この普請が続くさ中の翌文禄4年7月に秀次事件が起こり、ただちに聚楽第の破却が命ぜられ、その一部は伏見城に移されたという。聚楽第は関白となった秀吉にふさわしい城として、1586年(天正14年)京都内野の地に建てられたもので、その障壁は「永徳をしてその金碧に画かしむ」といわれたように、狩野永徳(かのうえいとく)一門による豪華なものでした。

狩野永徳(1543〜1590)・唐獅子図屏風

 指月の城とも呼ばれるこの城郭は、間もなく畿内をおそった慶長元年の大地震によって大破しましたが、ただちに木幡山(伏見山)にそれにも増して壮麗な城が建てられ、関ヶ原の合戦による伏見落城後も徳川家康によって再建がすすめられました。
 伏見では建設の槌音が絶えることはなかった。それは同時に城郭の諸建築の内部を飾る多くの障壁画があいついで描かれることであり、安土・桃山という、その桃山時代の絵画はまさにこの伏見城を中心に起こったのでした。
 伏見城の障壁画において、安土城における永徳に匹敵する画家として、永徳の長子の光信をあげることできます。また、ほぼ同年代に義兄弟の狩野山楽(かのうさんらく)、秀吉の建立した祥雲寺(智積院)の障壁画描いて画壇に躍りでた長谷川等伯(はせがわとうはく)がいました。

長谷川等伯とその息子・久蔵ら長谷川一門による「桜図」

 山楽は永徳が病のため完成し得なかった秀吉寄進にかかる東福寺法堂の天井絵によって一躍有名になりました。作品は大覚寺の金碧の牡丹図・紅梅図や西賀茂正伝寺方丈の水墨の山水図などがあり、永徳の豪快さを受けつつも、さらに清新なおもむきを見せています。
 文禄元年秀吉の愛児棄丸の菩提を弔うために建てた祥雲寺については、狩野派をおさえ、長谷川等伯が現在の智積院障壁画の3倍近くもあったと考えられる大事業を担当、この成功により、長谷川派の社会的地位を高めることになりました。
 障壁画に代表される桃山時代の絵画はまさにこの伏見城を中心におこりました。等伯・光信・山楽ら当代第一級の画家たちは伏見城の障壁画の制作のため、かなりの期間、伏見城下に暮らしていたであろうと考えられています。

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