伏見ちょっと小話 伏見ちょっと小話

深草・稲荷エリア

日本最古の土人形のルーツ

伏見人形

伏見人形

稲荷山の土で造った日本最古の土人形で、全国にある土人形の原型といわれています。深草人形、稲荷人形とも呼ばれ、稲荷大社門前で江戸時代の始め頃からつくられました。一説に創始者は鵤幸右衛門とされ、また、伏見城築城に参加した深草瓦師が余技につくったともいわれています。饅頭喰い、布袋さま、大夫さん、飾り馬、おきつねさんなど種類が多く、布袋さまは小さいものから順に七体買い揃えると縁起が良いといわれています。

伏見人形
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山の神のお使い

稲荷大社のきつね

稲荷大社のきつね

伏見稲荷大社への参道にある土産物店には大小さまざまな狐が売られています。さらに歩くと朱塗りの楼門があり、その脇には狐が一対置かれています。このほかにも稲穂や宝珠、巻物、鍵などをくわえているものなどがあり、狐は稲荷大神の眷族として信仰されてきました。神奈備の稲荷大社の峰々を飛び跳ねる狐を白狐と崇拝し神の使者として神前にも据え付けました。

稲荷大社のきつね
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神様の天敵が生んだ名物

稲荷名物焼き鳥

稲荷名物焼き鳥

稲荷神はもとをたどれば農耕の神様。稲をついばむすずめは天敵。ならば焼いて食べてしまおうということからはじまったといわれています。また、藤原俊成(1114~1204)は「夕されば野辺の秋風身にしみて うずら鳴くなり深草の里」と詠みましたが、太田南畝(1749~1823)は「一つとり、二つとりては焼いて食い うずら無くなる深草の里」と鶉の乱獲を皮肉っています。

稲荷名物焼き鳥
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表情豊かな石仏群

五百羅漢

五百羅漢

石峰寺は江戸時代中期(1713)黄檗山万福寺の六世千呆禅師によって禅の道場として創建。竜宮造りの赤い門をくぐり、裏山へ向うと曲がりくねった小道の合間に石仏群が佇んでいます。表情豊かな石仏群は五百羅漢と呼ばれ、釈迦の誕生から涅槃までを表しています。石仏の下絵を描いたのは江戸中期の画家伊藤若冲。若冲は石峰寺の住職密山和尚の協力を得てここに庵をむすび、十年余りの歳月をかけて描き上げました。

五百羅漢
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元政上人が棗形を考案

深草うちわ

深草うちわ

伏見は古くから「くれたけの里」と和歌に詠まれた竹の名産地、街道の名物に掘り立ての筍と深草うちわがありました。この深草うちわは、天正年間(1573)に河内利右衛門が奈良うちわを模して製造し、京や大坂で大流行。寛文年間(1661)に瑞光寺の元政上人が棗形のうちわを発案し、伏見人形とともに土産として売られました。少し縦長の楕円形、棗形の丸うちわで、高級品として扱われ、妓楼が座敷で持つものだったようです。

深草うちわ
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築城のために招かれた瓦師

深草瓦

深草瓦

名神高速道路の北側の深草瓦町は、豊臣秀吉が伏見城築城の際、播磨の飾磨郡英賀保などから瓦職人を招いて、瓦を焼かせたといわれる里でした。金瓦もこの一帯でつくられたのでしょう。かつてこの付近は上質の粘土が豊富に採れた場所で、宝暦五年(1755)には瓦を焼く家が一八軒もあったといわれています。宝塔寺の本堂の瓦は桃山時代のもので、鬼瓦には深草瓦と銘が記されています。

深草瓦
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奈良・平安時代の貨幣

皇朝十二銭

皇朝十二銭

和同開珎(708年鋳造)から最後の乾元大宝(958年鋳造)まで、十二回改鋳されたのでこの名がつきました。これらの銭貨は、奈良時代中期には近畿地方を中心にかなり広く流通しましたが、平安末期には宋の銭貨が広まり、やがてわが国の通貨は宋銭に依存していきます。深草では江戸末期に車塚と呼ばれていた古墳から長年大宝が発見され、車塚古墳は仁明天皇の陵墓となりました。

皇朝十二銭
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伏見義一気会合の場

真宗院

真宗院

天明五年(1785)文殊九助らが江戸にのぼり、伏見奉行小堀政方の悪政に対し直訴しました。願書は却下されたものの、政方が罷免された事件は世に名高く天明の義民一揆といわれています。政方は賄賂・博打・遊興の限りを尽くし、町民に強要した御用金は十万両にものぼりました。文殊九助を中心に、深草焼(陶器)を製造していた焼塩屋権兵衛をはじめとする人びとは、真宗院で会合し、計画を練りました。

真宗院
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伏見城の鬼門

古御香

古御香

豊臣秀吉は伏見城築城のおり、城の鬼門にあたる大亀谷に、御香宮を移転させました。墨染街道に面して石灯籠があり、そこから参道を進むと石の鳥居が見えてきます。広い敷地に小さな社殿が建っており、かつてはここに能舞台や本殿が建ち並んでいたかもしれません。御香宮がここを本社殿としていたのはしばらくの間で、秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦の後、徳川家康の天下になると、社殿は再び元の場所に戻されたのです。

古御香
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サルスベリの花咲く庵

清涼院と五郎太

清涼院と五郎太

サルスベリの赤い花が咲く清涼院はかつて、伏見城のお花畑山荘の一部でした。天下人となった徳川家康は、ここに寵愛するお亀の方を住まわせ、慶長五年(1600)に男子を出産。名を五郎太といい、後に御三家の筆頭となる尾張大納言義直です。車止めから境内に入ると端正な庭があり、本堂にはお亀の像と五郎太の青年時代の像が安置されています。このあたりの町名「五郎太町」は、この尾張大納言の幼名に由来しています。

清涼院と五郎太
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曲乗りの妙技

藤森神社の駈馬神事

藤森神社の駈馬神事

五月五日に行われる藤森神社の祭礼は深草祭とも呼ばれ、武者行列や駈馬神事でよく知られています。かつては、表参道から直違橋通を町内ごとに、北は稲荷榎木橋までを馬で駈けながら曲乗りを披露し、町内の氏子は家の前の桟敷で見物しました。藤下り・手綱くぐり・立乗り・逆乗り・逆立ち・及び馬・一字書などの七種類があり、現在は境内の馬場で曲乗りが演じられます。京都で駈馬神事が行われているのは、洛北の上賀茂神社とここ藤森神社だけです。

藤森神社の駈馬神事
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二つとないおいしい水

不二の水

不二の水

古くより水の豊かな地としてその名を知られる伏見。藤森神社の境内に湧き出る不二の水は、その水質の良さから「二つとない良い水」と称されこの名がついたといわれています。昔は浅く掘られていましたが、昭和六〇年代にボーリングを行い、地下一〇〇メートルの深さから水を汲み上げることに成功。水質も格段に向上し、おいしい水を汲みに訪れる地域の人びとで賑わっています。

不二の水
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伏見桃山・淀エリア

人びとの憩いの場

板橋白菊の井戸

板橋白菊の井戸

板橋小学校はかつての金札宮のあった場所といわれ、白菊の翁伝説などが伝えられています。平成元年、六年生が卒業記念に井戸の復活を計画し、卒業生の井戸掘り名人に頼み地下水を掘り当てることに成功。『板橋白菊の井戸』と名付けました。子どもたちはもちろんのこと、名水を汲みに訪れる人びとのコミュニケーションの場として親しまれています。

板橋白菊の井戸
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豊臣秀吉による大築堤工事

太閤堤

太閤堤

豊臣秀吉が文禄年間(1592~95)に伏見城を築城する際、物資の輸送をはかるため宇治川と巨椋池を分離させ槙島堤や太閤堤を築きました。さらに大和街道を豊後橋(観月橋)に直結させることによって、奈良への道が短縮されました。現在の向島駅近くまでの近鉄京都線がほぼそれにあたります。

太閤堤
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伏見と大坂を結んだ旅客船

淀川三十石船

淀川三十石船

淀川を往来する幕府公認の船は過書船と呼ばれました。三十石船もそのひとつで、淀川を就航する旅客船でした。朝・夕の二度「船が出るぞー」の掛け声とともに出港。その情景は落語「三十石」や浪曲「森の石松代参詣り」などでユーモアたっぷりに描かれています。また船頭が唄った三十石船唄は観光ガイドの役も担っていました。

淀川三十石船
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良質の水が醸す

伏見の酒

伏見の酒

伏見はその昔「伏水」とも書かれ、伏見七ツ井と呼ばれた井戸があったことからも豊かな地下水に恵まれた所です。伏見の水は中硬度のミネラル水で、カルシウム・リンなどが適度に含まれ酒の低温仕込みに適しています。口当たりの良いまろやかな伏見酒はこの良質の地下水によって育まれます。酒どころとして全国にその名を馳せている伏見には、三三社があり、おいしい伏見酒がつくられています。

伏見の酒
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京野菜のふるさと伏見

京野菜

伏見人形

京の伝統野菜の半数近くは伏見に歴史をもっているといわれています。有名な「伏見とうがらし」は江戸時代以前から稲荷周辺で栽培されていました。伏見にルーツを持つ野菜には他に「うど」「桃山みょうが」「花菜」「桃山大根」「淀大根(聖護院かぶら)」などがあります。これらの野菜には今でも栽培が続けられているものもあり、私たちの食卓を賑わせてくれます。

伏見人形
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伏見祭の名物花傘行列

花傘

花傘

秋に行われる御香宮の神幸祭は「伏見祭」とも呼ばれ洛南随一の大祭として知られています。伏見祭の名物のひとつ花傘行列は、お迎え提灯で、宵宮がクライマックス。昔は村ごとに風流花傘を競ったそうですが、今でも町内ごとにそれぞれ工夫をこらした花傘をつくって、祭の期間中、独特の囃子言葉とともに練り歩きます。

花傘
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城下町の名残りを今に伝える

四ツ辻の四つ当り

伏見人形

四ツ辻の四つ当りは伏見御坊(東本願寺伏見別院)の門前にあります。伏見の城下町づくりは、京都の街にならっており、いわゆる「碁盤の目」状になっていますが、四ツ辻の四つ当りはどの道から来ても撞木形になっていて突き当たってしまいます。迷路や袋小路をつくって軍事警固上の便宜をはかったためこのような形状になったものといわれています。

伏見人形
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日・月・星の旗印

城南宮の神紋

城南宮の神紋

木々の緑に朱色もあざやかな城南鳥居の島木に、日と月と星をかたどった「三光の紋」の錺金が輝いています。社伝によるとこの三光の紋は、神功皇后の軍船の旗印だったといわれています。非常に珍しい神紋で、他には福井県の古社に見られるだけです。日本海から、神功皇后出身地の近江を経て畿内に連なるルートが浮かび上がり、古代のロマンを感じさせます。

城南宮の神紋
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道元誕生の地、久我

道元

道元

曹洞宗の開祖の道元は比叡山で天台宗を学び、栄西について禅を学びさらに宋へ渡り曹洞禅を修めました。帰朝後建仁寺に入りましたが、二年後深草の極楽寺廃虚の安養院に閑居し、『正法眼蔵』を著し多くの信徒を得、やがて禅院の興聖宝林寺を創建。寛元二年(1244)には越前国(福井県)に永平寺を建て、弟子の養成に尽力しました。道元の父久我通親は豪族の久我氏の一族で、屋敷跡に道元の像を安置する誕生寺が建っています。

道元
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淀の冬の風物詩

淀大根

淀大根

淀の西方、現在の久御山町に一口と呼ばれる場所があります。ここで栽培されている大きな聖護院かぶらを一般的に淀大根と呼んでいます。冬になるとこのあたりの農家が川水を利用して一斉に大根を洗い、きめの細かい真っ白な淀大根を軒先に並べる様子は、淀の冬の風物詩として知られています。

淀大根
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淀殿の住居した城

淀古城

幼名をお茶々といわれた淀殿。父は近江小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹であるお市の方。天正一六年(1588)頃、秀吉の側室となり、淀城に入り鶴松を生み、淀殿と呼ばれるようになりました。この城は現在、石垣の残る淀城ではなく納所にあったとされ、妙教寺はその一部といわれています。伏見城の造営によって城は使命を終え、文禄三年(1594)に破却されました。

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醍醐エリア

醍醐水を発見し醍醐寺を興す

聖宝(しょうぼう)

聖宝(しょうぼう)

平安時代の初め、修行の場を求めていた聖宝が、笠取山に湧く水、醍醐水を「醍醐味なるかな」とうまそうに飲む地主神に出会い開いたのが醍醐寺です。醍醐味とは最上の味のことで、このあたりの地名の由来ともなっています。世俗の権威や権力に屈せず勉学と修行に励む聖宝の名声は高まり、宇多天皇や醍醐天皇の帰依や保護を受け次第に大寺院へと発展。秀吉ゆかりの三宝院庭園や国宝の五重塔や金堂、三宝院唐門のほか絵画、文書、彫刻など数々の文化財を持ち、世界文化遺産にも登録された名刹です。また聖宝が如意輪観音とともに自ら刻んだ准胝観音を祀った上醍醐の准胝堂は西国三十三ヵ所霊場第十一番札所として知られています。

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醍醐の里人に歓迎された悲劇の老将

源頼政(みなもとのよりまさ)

源頼政(みなもとのよりまさ)

高倉宮以仁王をまつりあげて平家打倒の兵を挙げた源頼政ですが、思うように軍勢が集まらず苦戦。近江から奈良へ逃れ再起を図ろうと以仁王、息子の仲綱ら50余騎とともに醍醐にさしかかると、里人は一行に粥を振る舞い、道を教えて助けたといわれています。この道が醍醐から日野山の麓を通り、木幡を経て宇治に通じる頼政道で、途中、一言寺や法界寺など名所旧跡があり、今なお昔の風情をとどめた古道です。こうして宇治平等院にたどりついた一行は、追ってきた平家と『平家物語』の名場面として知られる橋合戦を繰り広げ、老身を押し気迫を込めて戦う頼政ですが多勢の平家には勝てず、宇治の地で自害して果てたのでした。

源頼政(みなもとのよりまさ)
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花見を口実に醍醐寺を再興

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

「醍醐の春にあひ候へ」と秀吉が北政所たちを醍醐の花見に誘ったのは慶長3年(1598)が明けて間もない頃。さっそく秀吉じきじきの陣頭指揮が取られ、庭園には近くの山川から大石が運ばれ、全国から集めた700本の桜を三宝院から上醍醐槍山に至るまでの道筋に植えました。秀吉は花見の準備をかねて、応仁の乱以後荒廃していた堂塔の修理再建や財政的な援助をしていますが、それには座主の義演准后が秀吉の関白就任のために大いに裏で働いた礼の意味がありました。この花見は秀吉自ら仕掛けた慶長の役の戦況がはかばかしくないこともあって、より華やかなものにしたかったのでは……。華麗さを極めたこの花見の5ヵ月後、秀吉は伏見城で没するのです。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)
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幕府成立の影に醍醐寺あり

足利尊氏
(あしかがたかうじ)

足利尊氏(あしかがたかうじ)

室町幕府を開いた足利尊氏、その精神的な支えとして終生変わらぬ友情で結ばれていたのが醍醐寺の座主賢俊。尊氏が鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐天皇に反旗をひるがえし京都での戦いに敗れて九州に逃れた時、北朝の光厳天皇との仲をとりもち朝敵の汚名から守ったのが賢俊でした。賢俊は親鸞や室町将軍義政夫人、富子などを出した日野一族の出身。尊氏の陣中にも赴き戦勝祈願をしたようで、数々の働きに対して将軍の座に就いた尊氏から醍醐寺に対して6万石の寄進と堂塔、伽藍の修理や新三宝院(京都市梨樹町にあったとされる)を建立などが行われています。醍醐寺には兄とも慕ったであろう賢俊の死を悼んで自ら筆をとった写経が残されています。

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幕府成立の影に醍醐寺あり

足利尊氏
(あしかがたかうじ)

足利尊氏(あしかがたかうじ)

室町幕府を開いた足利尊氏、その精神的な支えとして終生変わらぬ友情で結ばれていたのが醍醐寺の座主賢俊。尊氏が鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐天皇に反旗をひるがえし京都での戦いに敗れて九州に逃れた時、北朝の光厳天皇との仲をとりもち朝敵の汚名から守ったのが賢俊でした。賢俊は親鸞や室町将軍義政夫人、富子などを出した日野一族の出身。尊氏の陣中にも赴き戦勝祈願をしたようで、数々の働きに対して将軍の座に就いた尊氏から醍醐寺に対して6万石の寄進と堂塔、伽藍の修理や新三宝院(京都市梨樹町にあったとされる)を建立などが行われています。醍醐寺には兄とも慕ったであろう賢俊の死を悼んで自ら筆をとった写経が残されています。

足利尊氏(あしかがたかうじ)
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公家理想の政治を行った名君

醍醐天皇(だいごてんのう)

板橋白菊の井戸

醍醐天皇の母は山科の豪族宮道氏の娘胤子、胤子は醍醐寺の聖宝に頼み、准胝観音に祈願して誕生したのが醍醐天皇。そのため醍醐天皇が聖宝に寄せた信頼は厚く、下醍醐寺の造営をするなどの保護をしました。また、醍醐天皇の皇后穏子が皇子に恵まれなかった時も、再び准胝観音に祈り、朱雀、村上の両天皇が誕生したと伝えられています。府下最古の五重塔は皇后穏子の発願により建立されたもので、朱雀、村上の両天皇により完成するに至りました。醍醐天皇は律令政治の終末期に在位し、菅原道真や藤原時平を重用して、「延喜の治」と称される公家理想の政治を行った名君。その醍醐天皇は醍醐山の西、後山科陵に眠っています。

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天下を揺るがせたファーストレディ

日野富子(ひのとみこ)

日野富子(ひのとみこ)

藤原氏の流れをくむ日野氏は代々将軍家へ正室を送り出し、富子もまた16歳のとき、八代将軍足利義政に嫁ぎます。永く子宝に恵まれなかった義政が弟の義視に将軍の座を譲ろうと決めた直後、富子に男子が誕生。溺愛するわが子義尚を将軍にするための争いが応仁の乱(1467~1477)へと発展し、京の町を焼き尽くした戦乱は6年余り続きました。風流を愛する文化人の夫、義政に代わって富子は政務に就き、関所を設けて課税したり、高利貸などで富を集めるなど手腕を発揮しました。法界寺は伝教大師作と伝わる薬師如来像を安置している、平安時代末期に日野氏が建立した富子ゆかりの寺。この寺の東には日野一族の墓が残されています

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日野一族の出身、宗教界の偉人

親鸞(しんらん)

親鸞(しんらん)

善人でさえ往生できるのだから、罪深い煩悩を持つ悪人こそ仏の救いが必要と唱えた浄土真宗の開祖、親鸞聖人。9歳で出家し、当時最高の名門僧慈円の弟子となれたのも、彼が貴族出身であったからで、親鸞は永承6年(1051)法界寺を建立した日野資業に続く日野一族の出身。父は有範といい、資業の五代後の子孫にあたります。このことから日野家の氏寺であった法界寺に幼い親鸞が参詣したであろうことが容易に想像されるでしょう。日野には産湯の井戸や胞衣塚、日野誕生院には親鸞6歳の姿を写した銅像があり、その下には得度式に詠んだという和歌「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」が刻まれています。

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天下取りの野望、明智藪に散る

明智光秀(あけちみつひで)

明智光秀(あけちみつひで)

織田信長の家臣だった明智光秀は、エリート街道をまっしぐらに突き進んだ有能な武将でした。しかしながら、秀吉と違ってプライドが高く、おもしろみに欠けるまじめな性格。主君の信長はそんな光秀に対し、次第に手厳しくあたるようになったのでしょう。光秀が抱き続けた信長への怨みは、やがて本能寺での謀反に至ります。しかし、天下を手中にするも、すぐさま秀吉率いる大軍に攻められる事態に。光秀は桃山丘陵をひたすら逃げて近江坂本城をめざしましたが、小栗栖のあたりで落ち武者狩りにあい、絶命したといわれます。光秀の首は、家臣によって藪のなかに隠されました。その藪は現在「明智藪」と呼ばれ、石碑が建てられています。

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小栗栖で政権の行方を見聞

定恵(じょうえ)

定恵(じょうえ)

小栗栖にはかつて堂塔が立ち並ぶ法琳寺(小栗栖寺)があったといわれ、この寺を創建したのが藤原鎌足の長男の定恵。鎌足は天智天皇の側近で大化の改新の仕掛け人、山科には別荘を持っていたといわれています。定恵の弟は藤原不比等であることを考えると、彼も当然政治との関わりは深いと想像されます。政権をめぐり血で血を洗う戦いが相次ぐ世のなかで、人間不信に陥り、出家したのでしょうか、それとも、僧をかくれ蓑に奈良朝、近江朝とも近い小栗栖の地で、弟不比等のために情報収集をしていたのでしょうか、それを知る手がかりはありませんが、小栗栖には壮麗を極めたであろう法琳寺跡や瓦を焼いた窯跡が残されています。

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