京都市の南部に位置するまち・伏見区は遠く奈良時代から街道が整備され、水運も発達した要衝の地として栄えてきました。古代、深草あたりは深草遺跡で知られるように農耕が営まれて、この地は京都盆地を開発した渡来人・秦氏の拠点でもありました。平安時代には、鳥羽上皇の「鳥羽離宮」や橘俊綱の「伏見山荘」に代表される貴族の別荘の地、景勝の地として伏見の名は知られていきました。醍醐寺の五重塔や日野法界寺の阿弥陀堂は平安時代の優雅な文化の面影を伝えている京都市内唯一の文化財です。近世には、豊臣秀吉が伏見城を築き、絢爛豪華と言われる「桃山文化」を開花させました。ついで徳川家康はこの地で幕府を開き、日本で最初に銀座を設置、高瀬川を開いて、京・伏見・大阪を一本の水路で結び、伏見港を日本最大の河川港としました。江戸時代の淀は、十万二千石の城下町として、朝鮮通信使やオランダ商館長をあたたかく迎え接待をしました。近代日本の夜明けの戦いの舞台は、鳥羽・伏見・納所・横大路・竹田でした。ぶらりと歩けば、いたるところに史跡がある伏見は、京の都と深くかかわりながら、独自の文化と歴史を形成してきた実に魅力的なまちなのです。

「伏見」略年表
縄文時代 | 稲荷山・大岩山丘陵で狩猟生活が始まり、縄文後期、上鳥羽鴨田一帯に集落ができる。 |
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弥生時代 | 弥生中期、深草西浦一帯に農耕村落が生まれる(深草遺跡)。 |
雄略天皇 | 俯見より、贄土師部(朝廷用の土器を作る陶工)を貢進。 |
欽明天皇 | 深草に屯倉を設定する(このころ秦氏、伏見を拠点とする)。 |
和銅4年(711) |
秦伊呂具、稲荷神社を創建。
伏見稲荷大社の社殿によれば、同年2月7日(初午の日)、稲荷山の杉の木に稲荷神が降臨し、これを目の当たりにした秦伊呂具が山上に社殿を建立しました。伊呂具は、当時京都全域、特に伏見で勢力を誇っていた渡来人、秦氏の族長であった人物。「山城風土記」には次のような伝説も残っています。権勢におごった伊呂具がある時、餅を的に弓を射たところ、餅は白鳥となって稲荷山頂に飛び去り、降りたところに稲が生えました。以後、家運の傾いたのを食べ物を粗末にした罰と考えた子孫達は、稲の生えた場所に祠を建てたというのです。この話からもわかるように、稲荷社の始まりは農耕神でした。 |
大同1年(806) | 桓武天皇陵を宇多野より伏見松原山へ移す。 |
貞観4年(862) | 御香宮の湧水を朝廷に献上。 |
貞観16年(874) | 聖宝、上醍醐寺を創建。 |
天暦6年(952) |
醍醐寺五重塔(現存)完成。
醍醐寺五重塔は現存する京都府最古の建造物。醍醐天皇の皇后穏子の発願で、朱雀・村上両天皇が15年の歳月をかけて完成させました。醍醐天皇と皇后は皇子に恵まれませんでしたが、同寺の准胝観音に祈願し、朱雀・村上天皇を授かったといいます。五重塔は、九輪の長さが塔の高さの約3分の1を占めているのが特長です。それとバランスを取るため、屋根の軒を長くし、安定感のある純日本的な美しさをたたえています。また、内部には、大和絵の手法を用い、極彩色の両界曼荼羅と真言八祖図が描かれ、天井において仮名文字が発見されるなど、日本文化黎明期の代表的建築物です。 |
永承6年(1051) | 法界寺創建。 |
延久年間1069 | 橘俊綱、伏見山荘を営む。 |
寛治1年(1087) 2・5 |
白河法皇、鳥羽離宮に移る。
鳥羽離宮は竹田駅から国道1号線を越え、鴨川の堤防に至る約1500平方メートルの地域を占め、平安京正門の羅生門から伸びる鳥羽の作り道のほとりに楼門がありました。同年2月5日、法皇は完成したばかりの離宮に移ります。このとき、付近の土地を殿上人から雑人にまで分け与え、さながら「都移り」の様相だったといいます。離宮は池に沿って御殿、仏閣、庭園の立ち並ぶ壮麗なもので、歌会や舞楽、競馬などさまざまな催しが開かれました。池は桂川、宇治川、淀川、鴨川に通じ、船で往来できたといいます。風光明媚な離宮は都や宇治などの要地を結ぶ交通・軍事の拠点となる場所に造られていたのです。 秀吉は月の名所として知られた木幡山(現・伏見山)の南西麓、指月の丘に城を築城しましたが、慶長の大地震で倒壊。伏見山に第2の城を築きました。この城は五層の天守閣を頂く豪壮なものでした。城下町となった伏見は、陸路、水路が整備され、大名屋敷や職人・商人の町家が建ち並ぶ、経済・政治・交通の中心地として発展を遂げます。しかし築城1年余りで秀吉が没し、城は徳川家康の手に。関ヶ原の合戦で炎上した城を家康は修復し、大阪冬・夏の陣にはここから出陣しました。豊臣家滅亡後、城は取り壊され、跡地に桃の木が植えられたといいます。これが桃山時代の名の由来となりました。伏見城の遺構は全国の社寺に移築されました。東山の養源院や西加茂の正伝院には、関ヶ原の合戦の際、家康の留守を預かった鳥居元忠以下の武士が、城を死守し切れず、自刃した際の血天井が残っています。 |
嘉保1年(1094) 7・14 | 伏見山荘を俊綱の弟・家綱が伝領、白河院に献上。 |
文治2年(1186) 1・19 | 後白河院、新造の伏見殿御所に移る。 |
建長3年(1251) 2・20 | 伏見荘、持明院統の所領となる。 |
貞治2年(1363) | 崇光院、伏見荘を代々の相伝とする(伏見宮家の出現)。 |
天文3年(1534) | 足利義晴、伏見山に築城する。 |
文禄1年(1592) 8・20 | 豊臣秀吉、伏見指月の丘に新屋敷造営開始。 |
文禄3年(1594) 1・3 | 伏見城築城開始。宇治川の治水工事、伏見開港。(全国から延べ二五万人を動員)。 |
文禄3年(1594) 8・5 |
秀吉、伏見城に入る。 伏見城下造成のため、予定地域の社寺・村落を移転。 |
慶長1年(1596) 7・13 |
鳥羽・伏見震源の大地震。伏見城ことごとく倒壊。
木幡山に伏見城再建開始。 |
慶長2年(1597) 4・28 | 伏見城天守閣完成。 |
慶長3年(1598) 8・18 | 秀吉、伏見城で没す。 |
慶長4年(1599) 3・13 | 徳川家康、向島城より伏見城本丸に入る。 |
慶長5年(1600) 8・1 |
石田三成、伏見城を攻め落とす。
九月、関ヶ原の戦いで家康側勝利。 |
慶長6年(1601) 5 |
家康、伏見城復旧。大坂城より移る。 伏見に初めての銀座設置。 銀座といえば東京の銀座が思い浮かびますが、本家はここ伏見。通貨統一を果たせずに亡くなった秀吉の後を受け、家康が両替町に銀座を設置しました。銀座とはいまでいう造幣局、堺より大黒屋常是を招き鋳造に当たらせ、全国統一通貨として広範な流通を図りました。両替町の5丁目8丁目を銀座1丁目から4丁目と呼び、ここには鋳造工場や検定所がありました。ちなみに町の公的な呼び名は両替町。銀貨と今までに使っていた銀との交換所・両替座があったことに由来しています。銀座は慶長13年京都へ移り、やがて廃絶しました。東京の銀座は、同じ頃、駿府にあったものが江戸へ移されました。 |
慶長8年(1603) 2・12 | 家康、伏見城で将軍宣下を受ける。 |
慶長9年(1604) 12 |
伏見伝馬所新設。伏見橦木町に傾城町復興。
家康、駿府築城に着手(伏見城の器材を移送)。 |
慶長10年(1605) 8・10 | 御香宮本殿現在地に再興。 |
慶長12年(1607) 4・29 | 松平定勝、伏見城代となる。 |
慶長18年(1613) |
角倉了以、京都二条から伏見までの高瀬川開さく。 御朱印船貿易で活躍していた角倉了以は幕府に高瀬川の開さくを願い出て、許可されると二条から東九条までを堀り進み鴨川に合流させ、伏見南浜まで結びました。西国から京に運ばれる年貢や諸物資は、それまで、伏見の草津の湊(下鳥羽)陸揚げされていましたが、この運河開さくにより、多くの船が伏見南浜に集まるようになり、江戸時代には三十石船など大小の船が集中する港町として繁栄しました。高瀬川運河を往来したのが高瀬舟で、木材を中心に生活物資が京の中心部に運ばれました。高瀬舟は代々角倉家が支配し、三栖半町には舟番所が置かれていました。了以の偉業をたたえる石碑が宇治川派流域の三つ叉橋付近に建っています。 ペリー来航に端を発する国論の分裂は幕藩体制を揺るがし、尊皇攘夷派と公武合体派との対立がついに起こったのが歴史に名高い『寺田屋事件』です。当時、薩摩藩の島津久光は、公武合体派の実力者として、幕府・朝廷の双方に信頼を得ていましたが、藩内に西郷隆盛、大久保利通、有馬新七らを中心とする尊皇攘夷派を抱えていました。久光の思いとは裏腹に、倒幕の機運を伺う攘夷派の薩摩藩士が寺田屋に入ったとの知らせを受け、久光は8人の剣士を説得に遣わしましたが応じず、有馬新七ら6人が即死、2人が負傷して翌日切腹、説得した側も1人死亡、9人の墓は薩摩藩の祈願所大黒寺に並んでいます。 |
慶長19年(1614) | 大阪冬の陣、夏の陣で淀船が物資輸送で活躍。 |
元和1年(1615) | 鵤幸右衛門、伏見で土偶人形を作る(伏見人形の原形)。 |
元和6年(1620) | 伏見奉行所が設置される。 |
元和8年(1622) | 伏見大手門が、御香宮神社に寄進され、表門となる。 |
元和9年(1623) 7・16 | 家光、伏見城で将軍宣下を受ける。小堀政一(遠州)、伏見奉行に任じられる。 |
寛永1年(1624) 10 | 伏見城撤去がほぼ完了。 |
寛永11年(1634) | 酒造制限令が出される。 |
明暦3年(1657) |
酒造株設定。伏見酒造株八三軒、
(造酒仕込米高一万五、六一一石八斗)。 |
寛文7年(1667) | 元政上人、深草瑞光寺に没す。 |
寛文13年(1673) 8・10 | 寒造り以外の醸造禁止。 |
延宝2年(1674) | 伏見の里、桃の名所となる。 |
天和年間(1681) | 伏見請酒屋(小売)七二株が仲間を許される。 |
貞享2年(1685) | 芭蕉、伏見の、任口上人と歓談。 |
元禄11年(1698) |
京都の地酒保護令が出る。(伏見酒の京都への移入途絶)。
伏見船二〇〇艘新造。 |
元禄12年(1699) |
建部内匠頭が中書島を開く。
中書島に長建寺建立。 |
元禄14年(1701) 8・17 | 伏見地方大洪水、(豊後橋の上三尺)。 |
正徳5年(1715) | 伏見酒四九軒、元株高八、三〇三石。 |
享保13年(1728) 7・8 | 伏見、淀、八幡大洪水。 |
享保19年(1734) | 過書船七四三艘、淀上荷船五〇七艘、高瀬舟一二八艘、伏見船二〇〇艘、今井船、柴船、漁の船など二、〇〇〇艘余り。 |
元文1年(1736) 8・13 |
指物町の銭座で銭貨が造られる。
伏見の町浸水、(六尺を越す)。 |
明和年間1764 | 伏見の人口二七、四五〇人を数える。 |
安永9年(1780) |
伏見造酒屋仲間に冥加銀の上納が命ぜられる。
『伏見鑑(上・下)』発行。 |
天明3年(1783) |
伏見造酒株二八軒、
(元株高六、一六五石、造米高六、六七一石)。 |
天明4年(1784) | 伏見酒、大坂表から船積で、江戸出荷。 |
天明5年(1785) 9 | 伏見町民文殊九助など、伏見奉行小堀政方の暴政を幕府に直訴(伏見騒動)。九助ら勝訴、小堀政方免職。 |
天保9年(1838) | 伏見請酒屋(小売)一三七軒。 |
天保13年(1842) | 仁阿弥道八、「桃山窯」を作る。 |
天保年間1830 | 伏見の人口四〇、九八〇人。 |
文久2年(1862) 4・23 | 寺田屋事件。 |
元治1年(1864) 6・17 | 長州藩、兵三〇〇人伏見に入る。(翌月、禁門の変が勃発)。 |
慶応2年(1866) 1・23 | 坂本龍馬、寺田屋宿泊中、幕府捕に襲われる。 |
慶応3年(1867) 6・24 | 伏見奉行廃止、京都町奉行が伏見を支配。 |
明治1年(1868) 1・3 |
鳥羽街道付近で幕府軍と薩長軍による鳥羽・伏見の戦い起こる。
(伏見の町が戦場となる)。 正月3日、薩摩を討つため、大坂街道を進軍してきた幕府軍、それを迎える薩長軍との間での押し問答の末、城南宮表参道に据えられたアームストロング砲が火を吹き、戦いの火ぶたがきっておとされました(鳥羽街道の小枝橋付近で、現在石碑が建つ)。この戦いで薩長軍が陣を置いたのが御香宮神社、幕府軍はすぐそばの伏見奉行所(現・桃陵団地)に、会津軍と土方歳三を中心とする新撰組を配備しており、鳥羽での砲声を契機に激しい戦闘が始まり、伏見の町は戦場と化しました。激戦の後、幕府軍は後退を余儀なくされ、富ノ森で錦の御旗がひるがえると一転して幕府軍は朝敵となり、淀方面での最後の死闘の後、退却したのでした。 千年の都として栄えた京都は、明治2年(1869)の東京遷都によって、35万人あった人口が25万人に激減、活力を取り戻すための振興策のひとつが琵琶湖疏水の建設。工事は明治18年(1885)に着工、延べ400万人が従事、総工費125万円。同23年に約20キロの第1疏水(琵琶湖~鴨川)が完成し、琵琶湖から流れ出た水が京都の中心部から鴨川に沿って南下、伏見城の外堀であった濠川との合流地点ではインクライン(傾斜鉄道)によって船を相互に運び入れました。これにより、大津~京都~大阪が船によって結ばれ、物資輸送が盛んに行われました。 |
明治2年(1869) | 外輪式蒸気船淀川丸(一一〇トン)就航。伏見酒造株数二八株(造米高七、三四〇石)。 |
明治5年(1872) 10・20 |
伏見第一小学校建設。
伏見奉行所跡が親兵隊屯所となる。 |
明治12年(1879) 4・11 | 紀伊郡伏見区役所が設置される。 |
明治12年(1879) 5・13 | 「伏水」「伏見」の町名を「伏見」に統一。 |
明治14年(1881) 1・14 | 伏見区が廃止され、紀伊郡管轄となる。 |
明治17年(1884) 5・27 | 紀伊郡酒造家同盟組合が結成される。 |
明治21年(1888) 2・1 | 私立伏見銀行設立。 |
明治22年(1889) 4・1 | 市町村制により京都府伏見町となる。 |
明治22年(1889) 7・1 | 東海道線。東京新橋―神戸間全通。 |
明治28年(1895) 2・1 | 京都電鉄。京都―伏見間開通(日本初の電車)。 |
明治28年(1895) 3・10 | 琵琶湖疏水伏見まで貫流(伏見インクライン)。 |
明治28年(1895) 4・18 | 奈良鉄道(現JR)京都―伏見間開通。 |
明治29年(1896) 7・29 |
陸軍第四師団第三八連隊、伏見深草に設置。
宇治川、淀川の大洪水。 |
明治33年(1900) 1・26 | 伏見酒造組合が府の認可を受ける。 |
明治38年(1905) | 京都電燈会社が伏見中油掛町に送電開始。 |
明治41年(1908) 11・1 |
第一六師団、伏見に設置。
欧米諸国に対抗して、富国強兵、殖産興業を合言葉に、近代化を進めた「明治」という時代。伏見を活況に導いたのが陸軍の進出でした。明治31年に陸軍第三十八連隊、第十九旅団司令部、京都連隊区司令部が、そして、明治41年にはこれらを統括する第十六師団司令部が藤森に設けられました。風格あるたたずまいの聖母女学院本館はこの第十六師団司令部が置かれていたところです。陸軍の進出によって需要が高まり、伏見の名を全国に轟かせたもの、それが「伏見の酒」でした。その生産量を飛躍的に延ばし、酒の優秀さが全国に認められたのでした。 |
明治42年(1909) 11・13 | 伏見酒造組合に醸造研究所設置。 |
明治43年(1910) 4・15 | 京阪電鉄。五条―天満橋間開通。 |
明治44年(1911) |
三栖、火力発電所完成。伏見に電灯普及。 全国清酒品評会(第三回)で伏見酒の応募二八点のうち二三点入賞。 |
大正1年(1912) 9・14 |
明治天皇御陵完工。
(元株高六、一六五石、造米高六、六七一石)。 |
大正2年(1913) 3・5 | 京阪電鉄。中書島―宇治間開通。 |
大正2年(1913) 6 | 伏見酒造組合内に伏見醸友会創立。 |
大正2年(1913) 10・12 | 全国清酒品評会(第四回)で伏見酒の応募三〇点、全点受賞。 |
大正3年(1914) 6・26 | 墨染に伏見水力発電所設置。 |
大正8年(1919) | 伏見の清酒生産高一〇万石を越す(全国約六一八万石)。 |
大正9年(1920) | 宇治川の大氾濫、伏見全町が浸水。 |
大正10年(1921) 8・1 | 官営鉄道。稲荷―桃山間開通、奈良線全通。 |
大正15年(1926) 10・1 |
伏見の清酒海外輸出高三九八石に達する
(全販売高一〇万四、〇〇〇石)。 |
昭和3年(1928) 11・15 |
奈良電鉄(現近鉄京都線。京都―西大寺間)開通。 伏見酒造業者の地下水を守る運動により、 宇治川―桃山御陵前間の地下鉄計画が高架となる。 |
昭和4年(1929) 5・1 | 伏見町が伏見市となる。 |
昭和6年(1931) 4・1 | 伏見市が京都市に合併、伏見区新設。 |
昭和8年(1933) 6・18 | 巨椋池干拓事業開始(昭和16年11月19日完成)。 |
昭和25年(1950) | 久我・羽束師村を伏見区に編入。 |
昭和28年(1953) 9・22 | 伏見酒造組合新発足。 |
昭和33年(1958) | 名神高速道路。山科―深草間完成。 |
昭和38年(1963) 10・1 | 近鉄、奈良電鉄を合併。 |
昭和39年(1964) 3・20 | 「伏見桃山城」(桃山観光開発)竣工。 |
昭和45年(1970) 3・31 | 京都市電(中書島・稲荷線)廃止。 |
昭和50年(1975) | 観月橋高架橋完成。 |
昭和55年(1980) | 伏見区、市内最多人口区となる(人口二五七、一五六人)。 |
昭和63年(1989) 6・11 |
京都市営地下鉄烏丸線。
京都―竹田間開通、(近鉄と相互乗り入れ)。 |
平成6年(1994) 12・17 | 醍醐寺、世界文化遺産に登録。 |
平成9年(1997) 3・6 | 伏見南浜界隈が「京都市重要界わい景観整備地域」に指定される。 |



天下人の城、伏見城
南は宇治川に臨み、西南に淀・山崎を眼下におさめ、京都の南の関門を占める伏見に、秀吉が築城工事をはじめたのは1592年(文禄元年)のこと。奈良の興福寺・塔頭多聞院に残されている日記には「伏見城は隠居城」と記されており、大坂城や聚楽第にくらべて私的な性格の強い控えの居城であったことがうかがえます。
隠居城とはいえ、天下人である秀吉の居城。淀城の天守と矢倉を取り壊して移築し、各地より名石、古い昔の塔などを取り寄せ、茶会用の滝の座敷をつくらせるなど、奇をてらい贅をつくした建物がつくられ、わずか1年足らずで城郭はほぼ完成に至りました。築城工事には当時の土木と建築の技術の労力が駆使され、石垣造りでその名を知られた近江の穴太(あのお)衆の石工も参加しました。
秀吉が最初に建てたこの隠居城の位置は南に宇治川が流れる指月の森、伏見山の西南の辺りに位置していました。また対岸の向島に出城を築き、橋をかけましたが、近江・美濃の各地から調達した桜の並木でつながっていたそうです。
1594年(文禄3年8月)には秀吉の入城を見るまでとなり、順調に城郭の整備がすすめられていました。しかし、1596年(慶長元年7月)大地震が畿内を襲いました。これが世にいわれる慶長の大地震です。
伏見城指月屋敷も向島の出城もこの大地震であえなく崩れ去り、当時の建築技術の粋をつくした壮麗な建築群も姿を消しました。この土地が城地に適さないと判断した秀吉は復旧に際して、指月の森の東、伏見木幡山を城地に定め、すぐさま築城に着手しました。
昼夜を徹した築城工事がすすめられ、10月には本丸の普請が完成、翌2年正月には新たな普請もはじまり、5月には壮麗な再興された天守閣や殿舎も完成に近づき、秀吉、秀頼が城に移るまでに至りました。同年10月には舟入御殿、学問所、茶亭なども完成。しかし、翌3年、8月になっても城の普請が続いていましたが「つゆと おき つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」の辞世を残して、秀吉は城の完成を見ず、この世を去ったのでした。
伏見城をはじめとする秀吉が築城した数々の城郭、それは戦国乱世に築かれた山城、戦闘本位の「城堅固な城」ではなく、平野に築かれた領国支配の拠点としての「国堅固の城」でした。城郭の領主の住居にして、政治を執り行う場所であり、その威容を誇ってそびえたち、城下町は政治・経済の中心として、情報と物資が集散する水陸交通の要衝に建設されたのでした。


城下町・港町の誕生
秀吉の強大な権力と、莫大な財力を駆使した都市づくりによって、まちは“伏見九郷”と呼ばれた農村から、当代随一の近世都市へと生まれ変わりました。伏見は天下統一した豊臣政権の政治的必要から、全く人為的に建設された新しい都市であり、豊臣政権から、初期の徳川政権の時代において、全国統治のための最も重要な中央政治都市としての役割を担ったのでした。
秀吉は築城に際して、これまで広大な巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、新しく槇島堤を築くことによって、城下の南まで北上させました。そして、この伏見のまちに引き入れた宇治川を三栖から淀まで、さらに堤防を築いて淀川と結び、伏見と大坂の間に水運を開いたのでした。この淀川堤防が世に知られる“太閤堤”で、以後、伏見は内陸の河港として発展をしてゆくのです。
また、秀吉は大規模な土木工事によって新しい街道も整備しました。伏見のまちから豊後橋を経て、巨椋池を南北に縦断し奈良へ至る新大和街道をはじめ、藤森から伏見稲荷大社・東福寺前を経て、京都五条に至る伏見街道、竹田を経て京都の油小路通と結ぶ竹田街道、京橋から淀堤を通って淀・大山崎を経て大坂に至る大坂街道、藤森から大亀谷、勧修寺を経て追分に出て、大津に至る大津街道、六地蔵から木幡を経て宇治に至る宇治街道などがつくられました。


秀吉はまちの中にあった社寺を大亀谷付近に移転させたので、初期の都市づくりにおいて、町家や社寺が占める土地は極めてわずかでした。しかし、武家の住んだ屋敷は伏見山や外堀の内外に広がり、広大な規模を誇っていました。大名屋敷として徳川家康は別格扱いで、豊後橋を経た向島の地に城を構え下屋敷を与えられていました。
1600年(慶長5年)秀吉没後の天下を争った関ヶ原の戦いでは、関ヶ原を主戦場とする大合戦とともに、日本最大の政治都市伏見をめぐる伏見城攻防戦があり、戦勝者徳川家康による伏見城下の西軍諸大名の屋敷焼き打ちがありました。
伏見のまちは混乱しましたが、家康もまた、伏見を全国統治の重要な都市と認めて、まちの再建に取り組みました。慶長6年には大坂から大黒常是(だいこくじょうぜ)を呼び寄せ、慶長豆板銀・慶長丁銀の鋳造を行わせました。これが日本で最初につくられた銀座です。
慶長18年には角倉了以(すみのくらりょうい)に京都二条から伏見までの高瀬川の開削を行わせ、伏見が京都の中心部につながると、伏見はますます繁栄を極め、三十石船をはじめとする大小の船が行き交う港町として賑わいを見せるようになったのです。







桃山の由来と伏見城
慶長豆板銀・慶長丁銀権力と富を誇って築かれ、桃山時代のあらゆる技術を結集し、意匠の粋を凝らして生み出された伏見城でした。しかし、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅亡、徳川家の天下が確定し、1619年(元和5年)に大坂城が修築されると伏見城は廃城となりました。
1623年(元和9年)伏見城での3代将軍徳川家光の将軍宣下を最後に、華やかな歴史の舞台から消え去り、静かにその役目をおえたのです。
「我衣に ふしみの桃の 雫せよ」 『野ざらし紀行』の旅に出た俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)は“桃山”の地を訪れてこの一句を詠んでいます。伏見城が廃城となり、跡形もなく取り壊されて跡地には桃の木が植えられ、桃の花見を楽しむ名所となったことから、この一帯が“桃山”と呼ばれるようになりました。
数奇な運命をたどり、忽然と消えた伏見城。全国各地には伏見城から移築されたという遺構が数多く伝えられています。山陽新幹線の福山駅から間近に臨む福山城伏見櫓。昭和28年の解体修理の際、梁にかかれた墨書から伏見城の松ノ丸ノ東櫓であることが判明しました。この伏見櫓は天守を中心とした城郭の本丸西南の隅にあり、高さ五間の石垣の上に立つ三層三階の隅櫓で、まず、二層の上に大きい入母屋の屋根をかけ、その上に小さい第三層を乗せる構成は初期天守閣に見る望楼風の形式をよく伝えています。
華麗をきわめた伏見城の千畳敷の書院、その威風を感じさせるのが京都の東本願寺書院。鴻(こう)の間と呼ばれる対面所を含むこの書院は豪壮華麗な意匠で知られ、桃山時代の様式を伝える最も代表的な住宅建築として知られていますが、伏見城の遺構であるという確証は得られていない。
長浜の東本願寺別院、大通寺の広間は伏見城の遺構と伝えられています。伏見城には茶亭、学問所、舟入御殿など、さまざまな建物が並び立ち、それぞれに優雅と華麗を誇っていました。琵琶湖にあって、弁財天を本地仏としてまつる都久夫須麻(つくぶすま)神社の本殿も伏見城の遺構と伝えられています。
秀吉の夫人北政所が亡き夫の冥福を祈って建てたという京都東山の高台寺には傘亭(からかさてい)と時雨亭(しぐれてい)と呼ぶ茶室があり、寺伝では伏見城の遺構といわれています。
伏見のまちの産土神、御香宮の表門は伏見城の大手門の遺構と伝えられ、このほか、西本願寺の唐門、醍醐三宝院の唐門、豊国神社の唐門など伏見城の遺構と伝えられる建物は多い。伏見城の廃城により、伏見のまちは全国統治のための中央政治都市から、京都と大阪をつなぐ中継商業都市へと、都市機能を大きく変化させていきました。

伏見城に花開く桃山文化
秀吉が隠居城として築いた当初は華麗な紺碧障壁画で飾られるような内部ではなく、明国との講和の交渉がすすめられ、その講和のため、明の使節を引見する舞台として伏見城が予定されると、本格的な城郭への改造・増築がはじめられました。
1594年(文禄3年)正月を期して着工された新しい城郭は当然、明の使節を引見するための大書院が含まれ、狩野派を中心とする画家に、その障壁画制作が命じられたと考えられます。
この普請が続くさ中の翌文禄4年7月に秀次事件が起こり、ただちに聚楽第の破却が命ぜられ、その一部は伏見城に移されたという。聚楽第は関白となった秀吉にふさわしい城として、1586年(天正14年)京都内野の地に建てられたもので、その障壁は「永徳をしてその金碧に画かしむ」といわれたように、狩野永徳(かのうえいとく)一門による豪華なものでした。
指月の城とも呼ばれるこの城郭は、間もなく畿内をおそった慶長元年の大地震によって大破しましたが、ただちに木幡山(伏見山)にそれにも増して壮麗な城が建てられ、関ヶ原の合戦による伏見落城後も徳川家康によって再建がすすめられました。
伏見では建設の槌音が絶えることはなかった。それは同時に城郭の諸建築の内部を飾る多くの障壁画があいついで描かれることであり、安土・桃山という、その桃山時代の絵画はまさにこの伏見城を中心に起こったのでした。
伏見城の障壁画において、安土城における永徳に匹敵する画家として、永徳の長子の光信をあげることできます。また、ほぼ同年代に義兄弟の狩野山楽(かのうさんらく)、秀吉の建立した祥雲寺(智積院)の障壁画描いて画壇に躍りでた長谷川等伯(はせがわとうはく)がいました。


長谷川一門による「桜図」

(正親小学校〈上京区中立売通表門角〉)
山楽は永徳が病のため完成し得なかった秀吉寄進にかかる東福寺法堂の天井絵によって一躍有名になりました。作品は大覚寺の金碧の牡丹図・紅梅図や西賀茂正伝寺方丈の水墨の山水図などがあり、永徳の豪快さを受けつつも、さらに清新なおもむきを見せています。
文禄元年秀吉の愛児棄丸の菩提を弔うために建てた祥雲寺については、狩野派をおさえ、長谷川等伯が現在の智積院障壁画の3倍近くもあったと考えられる大事業を担当、この成功により、長谷川派の社会的地位を高めることになりました。
障壁画に代表される桃山時代の絵画はまさにこの伏見城を中心におこりました。等伯・光信・山楽ら当代第一級の画家たちは伏見城の障壁画の制作のため、かなりの期間、伏見城下に暮らしていたであろうと考えられています。